子宮頸がんを経験した阿南里恵さん、「がんサバイバー」としての活動から今、人生の次のステップに踏み出そうとしています(3回シリーズ最終回)。
【まとめ】
☆自身の経験や思いを活かすべく、AYA世代や障害者、へき地のがん医療のために、厚労省がん対策推進協議会委員などを兼務、意見発信。
☆マイノリティのがん患者の方々の支援は、きっといつか自分に戻って来る。いつ自分が同じ状況になり、同じ立場に立たされてもおかしくない。
☆がんに関する活動ばかりでなく、自分の人生の基盤を作ろう。諦めてばかりいた20代、でも自分は自分。これからは、自分の幸せを諦めない。
――阿南さんはこれまでに、厚生労働省がん対策推進協議会委員や、特定非営利活動法人「日本がん・生殖医療研究会」など、活動の場を拡げてこられましたね。
はい。かつては「人には分からない」と内にこもりがちでしたが、私自身の経験や思いを、同じ苦しみや悩みを抱える人たちのために活かせれば、と考えるようになりました。講演活動をはじめると、多くの方からお声がけいただくようになって。
特に自分と同じAYA世代(思春期~若年成人)のがん患者の方々のために何かしたいと思い、2014年には、国のがん対策の方針を話し合う「がん対策推進協議会」で、委員として意見書を提出し
ました。若いがん患者の妊娠の可能性を保つ取り組みや、生殖機能を失った場合の心と体のケアの体制整備を、国として進めてもらいたいと考えたからです。
――障がい者やへき地のがん対策についても積極的に行動されていますね。
世の中、声を上げなければ「なきもの」として扱われます。でも、がん対策推進協議会にはがん患者・サバイバーは委員として参加していても、日常生活が困難な後遺症や障がいを持つがん患者の方はいなかったんです。そうしたマイノリティのがん患者の方々の支援は、いつか自分に戻って来る、と私は考えています。いつ自分が同じ状況になり、同じ立場に立たされてもおかしくないですから。例えば車椅子の方がいたとして、元々障害を持っていた方かもしれないですが、がんによって車椅子生活になった方かもしれないですよね。
地方で暮らしている方々も同じです。例えば今、北海道の医療過疎地域のがん対策に関わっています。北海道の大部分が医療が受けづらい地域です。広大過ぎて、これまで発信して来たがんと就労や検診の話の多くは、当てはめられません。年に1回健診バスが来て「精密検査が必要」と言われても、病院まで片道2時間もかかります。それに大変な量の雪が降るのでさらに時間がかかり、病院へは、よっぽどのことがなければ行かないというのが普通です。そうした地域でも遠隔診療や地域医療連携で検診や治療が受けやすくなれば、そのノウハウは全国の医療過疎地域でも役立てられます。

北海道標津での経営者向けセミナー(がん検診による早期発見の重要性とがん患者・サバイバーの就労支援について)

標津は人より牛の方が多いそうです!
酪農や農業、漁業が、私たち日本人の毎日の食卓を大きく支えています。そこで働く人々は、国の財産です。もっと私たちが出来ることはあると感じて、今まさに色々な方にコンタクトをとっています。 世の中全体を見ても、「明日は自分が当事者になるかもしれない」「他人事ではない」という感覚が足りないと感じます。
――たしかに、みんな自分や自分の身近な人は、いつまでも元気だと思っていますよね。
そうなんです。死や病気は、嫌なこと、悲しいこと、考えたくないこと、なんです。実は私の母がそうでした。2年前に父が肺がんで亡くなったのですが、最期はかなり苦しんで、父自身も主治医も鎮静剤を増やそうとしました。意識は混濁してしまいますから、ほぼ眠り続ける状態になります。私も納得しました。でも母だけが、「今こうして喋れているのだから嫌だ」と、最後まで反対したのです。
私は、「死ぬってそんなにダメなことなの?」と思ってしまった。じゃあ、何歳まで生きられたら納得するのでしょうか?
よく、「役割があるからまだ死ねない」という言い方をする人がいます。その人にとっては正しくても、いつも正しいとは限らない。じゃあ、小児がんで幼くして亡くなった人は、役割を果たしていないの?
生きた時間でなく、どう生きたかが大事。どんな人でありたいか、それに向けてどうがんばったか。 私は、「これが今日できたら明日死んでもいい」と思って毎日生きていきたい。ずっと頑張っている人でありたい。最後の一日まで何かにチャレンジし続ける人でありたいのです。
――何か今、チャレンジしようとしているとか?
実は、この12月から1年間、イタリアに留学することになっています。元々「空間」に興味があって、建築やインテリアを本場で学びたいと思い、決意しました。
インテリアに関わる仕事に就きたいと思ったのですが、日本ではとにかく実務経験重視。私は30歳を過ぎてゼロからのスタートで、難関の資格を取っても、なかなかチャンスを得られませんでした。日本では「こうあるべき」「こうでなければならない」という暗黙のルールが根強く、これまでも就職や恋愛など様々な場面で窮屈さを感じてきました。だったら、海外に出てみよう。もう、自分の好きな事ややりたい事を無意味に諦めるのはやめよう、と。

猛勉強してインテリアコーディネーターに
そんな風に考えるようになってきたのは、30歳を迎えた頃あたりからです。それまでは、「人のため」と思って頑張ることが、自分のためだと思って頑張っていた。でもふと、がんになる前にできたことができなかったり、同級生の人生と自分の人生を比べたりして、自分の中での「幸せのカタチ」が分からずにイライラすることもりありました。
それが30歳を過ぎた頃から、だんだん客観的になっていき、自分の将来をどうするべきか、冷静に考えるようになってきましたね。「自分の人生の基盤を作ろう」と思うようになったのです。その一方で、「がんに関する活動ばかりで自分の人生を終りたいわけじゃない」、という自分の気持ちにも気づきました。
結婚もしたいし、子供も欲しい。もちろん自分では産めませんから、里子や特別養子縁組を考えています。日本では「子供が産めない」というのは結婚に際してまだまだ大きなネックになりますが、そういう意味でも海外留学に期待しています。それに、素敵なお家も車も欲しい。そのためにも早く自分がやりたい仕事で自立できるように頑張ります!
とにかく色んなことを諦めた20代でした。でも、30代半ばになって「自分は自分」と、今は心から思えるようになりました。自分を追い詰めるのもやめました。焦ることなく、一つひとつ実現していけばいい、と。まずはイタリア語から頑張ります。(笑)
【完】
阿南里恵(あなみ・りえ)
「23歳の時に子宮頸がんが見つかり、抗がん剤、手術、放射線治療を受けました。いのちは助かったけれど、オシャレや遊び、恋愛、結婚、仕事とあらゆることに治療の影響を受けました。20代はずっとどうやって生きていけば良いのかわからず苦しみ続けましたが、今は『それらの経験は全て私にとって必要でした』と言えるようになりました。私の体験談を通して中学生の皆さんたちと一緒に、生きるとは何か? 幸せとは何か? を考える機会になれば嬉しいです。」
(いのちの授業~がんを通して プロフィールより)